言葉を自発するようになって、当たり前のように言葉を使ってコミュニケーションしていく。
でも、ある時ふと「(なんかモヤっとするけど)へぇ〜…」と、言語化できないがゆえに確かにあったはずの気持ちや考えが、存在そのものから亡き者にされるときがある。
それが自分のコミュ力とか国語力の問題だと思ってた時期もあった。
が、それだけではなく、日本語にそもそもそれを表現できるワードがないことに気づいた。
江戸時代の人にスマホを紹介するとして「電話」「ネット」「電波」「ジョブズ」など全ての関連ワードが禁止されたときを想像してみてほしい。
むりじゃないか!
「わかるように説明してください」
50年以上遡ると、「女→ヒステリー→呆れた存在」というステレオタイプがあった。
「呆れた存在」はちゃんと考えることが無理なものということで、軽く、どうでもいいことでまた騒いでいる、そんな扱いを受ける。
これはどういうことかというと、口を塞がれることと繋がる。
「呆れた存在」は何を言っても「はいはい、そうですかー」と流される。
それでも何とか口を開こうとすると、ある時「何か、この存在は主体性を持って、こちらに1意見を言おうとしているのではないか」「それは重要なことではないか」と気づく者が現れる。
しかし、長年口を塞がれ続けた者に、自分自身を語る言葉は与えられていない。
「わかるように説明してください」と椅子にのけぞり、こちらに疑いをかけてくる者は言う。
その者は口を塞がれていないから、言葉を構築してきた歴史がいくらでも味方している。
では、こちらは何を味方にしようか?
QRコード
ここで突然QRコードの歴史をちょこっと挟みたい。
QRコードって今やどこでも見るし、スマホがあればサッと読み込める。
あのモザイクのような模様は、少ない面積にたくさんの伝えたいことを載せられる、もはや1つの言語と言っていいだろう。
そんなQRコードは1994年にデンソーという会社が開発した。
当時トヨタと連携した工場において、「かんばん」という製品情報を載せたカードが使われていた。
これで部品の管理をしていたのだが、誤認識が多かったり作業の手間が多かったりして、「なんだこの手間(でも仕方ないか…)」状態だったという。
そこで汚れに強く・狭い面積に一気に情報を載せられ・正確に認識ができる新たな「かんばん」=QRコード、および、読み取り機が開発されたのだ。
これを知った時、フェミニズムが女性の、クィアスタディーズがセクシュアルマイノリティーの、見過ごされてきた「言語化できないけどモヤモヤすること(仕方ないか…と飲み込んでた)」を理論的に言語化していった歴史が思い出された。
当時のデンソーも「従来のかんばんで何が悪い」状態から、手探りでQRコードを開発したという。
何なら、終業から深夜に至るまでといった業務外の時間で開発していたようだ。
このマッチョエピソードにはホモソーシャルな雰囲気を感じるものの、「なんかおかしい」「なんかモヤモヤする」をQRコードという言語に昇華できたところにクィアスタディーズみを僕は感じる。
それもプログラミング技術者1人ではなく、予算管理をする人に話をつけて味方になってもらったり、読み取り機を作るためにハードを作れる人と協力したり、少人数だけどコミュニティを作る様子も見られた。
シスターフッドだ。
言葉を作ること
アセクシュアル(Aセクシュアル、Ace、無性愛)のコミュニティでは、「友人<恋人<結婚相手」という重要度とか社会的な構造からくる名称の固定から、取りこぼされる関係性に注目し、恋愛感情ではなく、ただの友情・親友でもなく、自分にとってすごく大事で親密で絆がある相手を「ズッキーニ」と呼ぶそうだ。
なぜ「ズッキーニ」というワードになったかは、本当にナゾらしい。
「クィアプラトニック」ともいう。
これは「恋愛するのが当たり前だよね」「パートナーとは性的な関係を持つのが当たり前だよね」という世の中で、口を塞がれ続けた結果、英語に(日本語にも)存在しなかった・できなかった概念である。
アセクシュアルの人たちがネットの掲示板でコミュニティを作り、「自分はこう」「自分はこんな感じ」と頑張って言語化していったことで、ポンっと、現在を生きる我々に使える形で生み出された言葉なのだ。
そういう経緯があったから、「ズッキーニ」って言葉を、自分が恋愛関係じゃない人を大事にすることでモヤモヤして周りにも理解されず説明もできず困っている人に渡すことができる。
し、椅子にのけぞってこちらに疑いをかけてくるヤツに
「自分で調べて、対等に話せるようになってからまた来てください」
ということもできる。
なんて楽なんだ!
これは文化遺産だ!!
こんな感じで、日本語も創造的に編んでいけたらなと考えた。
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